心の痛むニュース

また中国人観光客が奈良で鹿を蹴った!
そんなニュースやSNSを目にするたび、私たちは憤る。
「なんて酷い…」
でも、本当に問題なのは「誰が」やったかではない。
「なぜ、そんな行動が起きるのか」です。

私も個人的にかなり憤りを感じてしまい、色々調べてまとめました…
それは“優越感の遊び”だった

鹿が近くに来て怖くて蹴った?
子どもを守るため?
本当にそうか?
多くの映像の場合、人は笑いながら、面白がって蹴ったり叩いたりしています。
この場合は自己防衛ではない。
「自分のほうが上だ」と思いたいだけの、言わば「優越感の遊びです」
反撃してこない相手を一方的に支配することで、まるで自分が強くなったように錯覚する。
まるでネットで弱い者を叩いてスッキリするように…
アドラーは言いました。

他者を下げることでしか、自分の価値を感じられない人がいる
観光地という非日常の空間と文化的摩擦
観光地という「非日常の空間」では、人は倫理のブレーキが緩みやすくなります。
そこに文化的な違いが加わると、さらなる摩擦が生まれます。
日本では鹿は「神の使い🦌」
しかし、中国をはじめとする一部の文化では、動物はただの生活資源や管理対象とされる傾向が強いです。
生き物の命の価値を「神聖なもの」と見る感覚は薄く、動物に敬意を払う習慣も異なります。
「ただの動物」「観光の小道具」として鹿を見る目線があれば、そこに敬意は生まれません。
そして「ここでは何をしてもいい」という油断が、行動のタガを外すことになります。
鹿を蹴るのは、他人の話じゃない
ここが一番怖いところです。
私たちは「鹿を蹴る人」を見て、自分とは違う「悪い人」だと片付けたくなります。
でも、本当にそうでしょうか?
SNSで誰かを叩いた時、新人や部下、自分より立場の弱い相手に強く当たった時。
反撃されないことをいいことに、優位に立とうとした時。
それは――「鹿を蹴る」ことと、大きな違いがあるのだろうか?
形が違うだけで、根っこにある心理は同じかもしれない。
「自分のほうが上だ」と感じることで、安心しようとしているだけ。
そう考えると、鹿を蹴る人と自分の間には、ほんの一歩の距離しかない。
誰もがその一歩を、気づかぬうちに踏み出してしまう可能性があるのです。
生き物の命を尊重できる社会へ
鹿は、今日もただそこにいるだけです。
人間の承認欲求も、優越感のゲームも、文化的誤解すらも関係ない。
ただ静かに、今日も草をモソモソと食べています。
そんな存在にすら手を上げるということは
「人としての尊厳」をどこかで置き去りにしてしまったということかもしれません。
そして、相手の文化を理解した行動や、文化の理解を促す働きかけも重要です。

強さは自分を抑える力、優しさはその奥にあるゆとりです。
最後まで閲覧いただきありがとうございました!
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